「市川光山窯」 の歴史

 私の父、光雄は明治40年藩窯の御細工屋敷跡に光之助の5男として生まれ、大正13年県立有田工業学校、図案絵画科を卒業、昭和3年京都美術学校(現在の京都市立芸術学校)日本画科に入り、竹内栖鳳先生に師事し同校を卒業、第2次大戦中でも光雄の秀れた技術は、政府に認められて昭和15年(当時33歳)に現在の通産省の前身で当時の商工省より「伝統陶芸色鍋島」の技術保存者に認定されました。また、徴兵免除の恩典を与えられ、その技術を保護され美術品を焼き続けることが出来ました。
 光雄は末子であったため家を出て、自身の窯「光山窯」を開いておりました。鍋島御用窯の「精巧社」は長兄の光内が継いでおりましたが、戦時中、経営が不安定な時代となり、このままでは伝統の鍋島藩窯が人手に渡る不安と懸念が生じた光雄の母は光雄を呼び戻し鍋島藩窯を再興させるように頼んだのです。光雄は鍋島藩窯の伝統を守るために自分の窯を離れ多額の負債とともに市川光山として今の場所で窯を継承する決意をしたのです。そして、73歳で亡くなるまで「青磁」「色鍋島」の作陶に飽き足らず至難とされた「磁器の辰砂釉」に成功しました。
 第18代光山は日本画を学んでおりましたので「デッサンが描ける焼物士はそういないだろう」ということを親しい人にたちに時折話していたようです。父が亡くなったのは、昭和57年1月私が大学の卒業を控えた頃でした。
 大川内山が秘窯の土地ということもあり、古くから伝わる技法や釉薬の調合の割合などは代々見聞き覚えで伝えられていたようです。実際父から直接学んだものはなかったように思います。それらを書きつけたものは一切ありませんでした。何もかも自分の頭の中に入れたまま亡くなりましたからほとほと困りました。ですが、江戸時代に藩窯で使われていた図案帳が残っていて焼き物の図案も沢山載っていました。藩窯が終わったあとも曾祖父、祖父、父、私へと受け継がれてきたのです。それに、天然の呉須と青磁の鉱石を父が遺してくれました。

 父は当時の商工省から伝統技術保存者として指定され軍需省の特命の仕事をしていたと聞いています。そのために現在では入手しにくい天然の呉須を軍から交付されていました。天然の呉須は不純物が多いため発色が悪く、扱いが難しいので私はほとんどコバルトの呉須を使っています。私は男兄弟の中では1番下なので父が私に窯を継がせる意思があったのかどうかは分かりません。ですが、微妙な手の感覚が鈍るからと言って私だけは小さい頃から球技をさせてもらえませんでした。何で僕だけが・・・と思っていましたが幾何学的な更紗文様を深皿に描く時などに、ああこういうことかと言うことは分かりました。もちろん今では色々やっております。10〜20代の頃は技術を磨くため細かい紋様が入った複雑な図案のものを多く作っていました。
 江戸時代から伝わる図案を見てお客様から注文が入ったりしますが私は江戸時代の作品が必ずしも100パーセントだとは思っていません。江戸時代の鍋島焼の作品にこの時代には出しにくかった緑色を多く使った作品があります。どうみても私は色のバランスが悪いと思うのですが、技術的に難しかった緑色を多く使って職人が自分の力を誇示しようとしたのかなと。描く場合は昔の図案をもとにしていますが9割方私の図案にしています。ご注文下さったお客様もこちらの方がいいと言って下さいますので。イメージしたものが出来なかったことはほとんどありませんが出来なかった場合は同じ方法でひたすら出来るまでやるということはしません。いったん止めてなぜ出来なかったのか、どうやったら出来るかを考えてから始めます。そしてたとえ成功して出来上がっても、次はもっと違うやり方でもっといいものが出来ないかと考えます。こういうやり方をほぼ1人の手でやっているのでお客様からのご注文は数カ月から数年かかることもあります。

 鍋島焼の主な作業として「轆轤成形」「下絵付け」「上絵付け」があります。この3部門には、それぞれ伝統工芸士と1級技能士の国家試験があります。これら、すべての資格を得るためには6つの試験に合格しなければなりません。鍋島は極めて精巧な出来上がりを要求される磁器です。真の鍋島を知るには全てをやってみないとわからない、やる以上はまず全ての資格を取ることだと思い、(誰にも負けたくないという…欲張りですね)全ての資格を取りました。幸い私は轆轤を中村清六先生に教えて頂くことが出来ました。ですが、絵付けについてはほとんど自己流です。
 私は現在伊万里・有田伝統産業会館で後継者育成のために週に1度絵付けを窯元の後継者の人達に教えていますが、私がやり方をやってみせると、こういうやり方ってあるのですか?と聞かれます。私にとっては決められたやり方はなく、いいと思ったことはやってみます。でも、やるまでは今までの経験と知識を頭のなかでイメージしてやります。例えば昔の絵の具には鉛が入っていたために独特の風合いがありましたが今は鉛が使えません。そこで、昔の風合いを取り戻すために大学で習った油絵の技法で出来ないかと試行錯誤しています。
 私が目指している鍋島は江戸時代の鍋島ではなく、そうかといって目新しいだけの鍋島でもなく江戸時代の鍋島がそのまま続いていたらこうなっているだろう・・・鍋島です。

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