「鍋島藩窯」 の歴史

 「鍋島藩窯」は江戸時代の初期、寛永5年(1628)佐賀鍋島藩の直営事業として創業され、明治4年(1871)の廃藩に至るまでの250年間、藩の重要な御用産業として色鍋島をはじめ、鍋島染付、鍋島青磁などの磁器の名品、優品を焼き続けました。その製品は朝廷や将軍家の献上品、諸大名への贈答品および藩の御用品のみを生産し、民間への流出は厳重に禁止されました。
 藩窯の製品のうち、特に色鍋島は、世界における色絵磁器の中でも最も品位があり、意匠、図柄においても優秀な美術品であります。鍋島が焼かれている大川内山は三方を山水画に描かれているような岩壁や急峻な山稜に囲まれ、その景観はここが秘窯の地を物語っているかのようです。
 藩窯の職制には御道具山と呼ばれる、御細工所がありました。これに、藩から派遣された御陶器方が監督者になり御細工人、画工、捻り細工、下働き計31人で構成されておりました。そして、全員が藩窯の技術の秘密保持のため構内に居住していたのです。この人員構成は大河内の地に開窯後、明治までの200年間変わっておりません。陶工たち(御細工人)は藩から生活、身分を保障され、更に苗字帯刀を許された士分格とされ、全ての公課、苦役を免ぜられた手厚い保護と待遇を与えられていたのです。その反面に義務としては、年間に定められた数量の品物を製産して藩へ納めることでした。その上、御細工人でも技量が低下した場合には、罷免されることもあるので、御細工人は常に自分の技術の練磨と向上に努めたのは言うまでもありません。

 また、有田一帯の民窯の中から優秀な陶工の抜擢登用の制度もあったので、民窯の陶工たちには御道具山の御細工人になることが大きな夢となっていました。鍋島藩窯の製品が格調高く優美かつ典雅さを備えた超一級品となったのは、こうした、陶工たちの技術ばかりではなく、代々の鍋島藩主が大きな力と並みならぬ熱意を注いだ結果です。更には藩が、製品に欠かせない白磁鉱石、釉薬原料、窯道具、薪材などの諸材料を充分に厳選したからでもあります。
 こうした、藩窯は江戸時代を通じて、他にはあまり見られない卓越した制度でした。明治の廃藩と同時にその形態は民窯となり鍋島侯爵家の御用窯として土地、細工所、構成人員の大部分は藩窯時代のまま継続されました。鍋島家はこの御用窯を藩窯最後の細工所責任者でもあり、名画工として技術のみでなく人柄も秀れていた市川重助にその代表者として運営一切の実権を与えました。そして、「藩窯」を改め鍋島御用窯の「精巧社」として明治10年に再建したのです。市川重助は明治31年59歳で他界しましたが、その長男光之助が跡を継ぎ、明治、大正にかけて御用窯の発展に大きく貢献しました。

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