唐津焼の歴史
 唐津焼の起源については様々な説がありますが、室町時代末から桃山時代にかけて、岸岳城を居城とした松浦党首・波多氏の庇護のもと、雑陶を中心に焼かれていたのが始まりのようです。しかし現在のような唐津焼が生まれたのは、別名「陶器戦争」ともいわれるほど日本の窯業界に影響を与えた文禄・慶長の役以降のことです。
 桃山時代になり利休を中心として茶の湯が盛んになると、茶の湯に叶った陶器が要求されるようになります。文禄慶長の役で高取や薩摩と同様に朝鮮陶工が多数唐津に渡来し、従来の岸岳系の陶工たちと一緒になり、肥前一帯に多くの窯が開かれました。彼らがもたらした蹴ロクロと連房式登り窯という新しい技術により、唐津焼は大きく発展することになります。当時唐津では波多氏のあとに、寺沢志摩守広高が藩主になっていましたが、彼は利休門下の茶人で古田織部の後輩にあたり、しかも織部焼の焼かれた美濃の出身でありました。その影響もあり唐津焼は織部や志野焼のように茶陶として焼かれました。
 その後、茶の湯と桃山様式の衰微と共に美濃陶や唐津焼は民陶に変化しながらも400年続いております。茶陶唐津焼のきらめきは50年ほどだったと云われておりますが、斑唐津、朝鮮唐津などの技術的に非常に高度な古唐津を現在に残しました。肥前の陶器が唐津港から全国へ積み出され、「一井戸二楽三唐津」といわれる程、人々から親しまれるようになりました。
唐津焼の地理
 唐津の松浦川河口より南西へ10kほど遡ると古くから陶器が焼かれていた北波多村があり、さらに15kほど遡ると唐津焼の全盛期を誇った古窯跡群の松浦、大川野があります。磁器の有田から陶器の唐津まで約45k。その中ほどに伊万里があります。まさに陶磁器の里です。現在は唐津焼の販売のほとんどが唐津市街地に集中しています。窯元も唐津市周辺が多くなってきました。
 
 
 
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