伊万里市内の窯跡
古唐津 陶片の美
 伊万里市教育委員会主催の「古唐津 陶片の美」を見に行きました。伊万里市内には約80ヶ所の窯跡があり、その多くは陶器(古唐津)を焼成していた。伊万里市での窯跡は市内の東半分を中心に分布し、その多くは陶器を焼いていた。市内で古いと考えられる窯跡は主に大川町に所在し、その後、松浦町、南波多町へと広がっていく。窯は山の斜面を利用した登窯で、製品を焼く焼成室が連なっている構造です。一番下の部屋で火を焚きますが、それだけでは火力がたりないので焼成室ごとに薪を入れて焼成します。古い時期の窯構造は竹を縦に割ったような「割竹式」の構造をしています。製品を並べる床(砂床)は傾斜しているためトチンやハマなどの窯道具を使って製品を水平にします。その後、窯構造はドーム状の大きな焼成室を連ねた「連房式」へと変化します。
朝鮮陶工
 唐津焼とは肥前陶器の一般的な総称です。唐津焼の開始は天正・文禄年間(1580〜1590)に唐津市北波多の岸岳周辺を中心とした地域から始まりました。領主であった波多氏の保護の下、朝鮮の陶工たちによって生産が始まったとされています。文禄3年(1594)に岸岳城主である波多親が豊臣秀吉から改易され陸奥国(茨城県)に流されると朝鮮陶工も離散し、その一部が伊万里や武雄で窯業を開始したと考えられています。
鉄絵文様
 豊臣秀吉による朝鮮出兵により慶長年間(1596〜1615)には多くの朝鮮人陶工が連れて来られ伊万里地域を中心として唐津焼が生産されました。この時期の特徴的な製品は鉄絵を描いた絵唐津です。また製品を焼成する時の窯に詰める方法として碗や皿類は重ね積みをしていますが製品同士が融着しないように製品と同じ素地の粘土を小さな団子状にしたものを製品の間に挟んで焼く方法が行われた。
装飾技法
 1600年代には胎土目積み方法から砂状の粘土を固めた砂目積みへと変化していきます。この技術変化も朝鮮陶工の関わりが考えられています。砂目積みの技術が使われる頃に鉄絵の製品は急速に消え、代わって釉薬をかけただけで文様の無い碗や皿(後継15センチ程度)が大量に流通します。この碗皿は出土する地域では大量に出土しますが遠隔地では出土しないなど流通範囲に偏りが見られ輸送費をかけない安価な大量生産品として生産されたと考えられます。また有田周辺では磁器生産も始まりますが初期の段階では陶器を焼成する窯で時期も一緒に焼かれていました。1610年代頃の新しい装飾方法として白化粧土を使った型紙摺りや三島手と呼ばれる象嵌技法、新たに現れた銅緑釉と鉄釉を使った二采手などがみられます。
鉄絵で文様を描いたものは絵唐津と呼ばれており、その文様は植物、動物、風景(山水)幾何学文様など、これもまた多種多彩です。これらの文様は単純な線描きで描かれていますが伸びやかであり躍動感があり生き生きとした文様に奔放や快活だけではない奥深さがあります。
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